二

 ……一時間ばかりたった後《のち》、手拭《てぬぐい》を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄《かしげた》を突っかけ、半町ほどある海へ泳《およ》ぎに行った。道は庭先をだらだら下りると、すぐに浜へつづいていた。
「泳げるかな?」
「きょうは少し寒いかも知れない。」
 僕等は弘法麦《こうぼうむぎ》の茂みを避《よ》け避け、(滴《しずく》をためた弘法麦の中へうっかり足を踏み入れると、ふくら脛《はぎ》の痒《かゆ》くなるのに閉口したから。)そんなことを話して歩いて行った。気候は海へはいるには涼し過ぎるのに違いなかった。けれども僕等は上総《かずさ》の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏に未練《みれん》を持っていたのだった。
 海には僕等の来た頃《ころ》は勿論《もちろん》、きのうさえまだ七八人の男女《なんにょ》は浪乗《なみの》りなどを試みていた。しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗《あかはた》も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚《なぎさ》に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲《よしずがこ》いの着もの脱《ぬ》ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細《こま》か
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