海のほとり
芥川龍之介
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)午飯《ひるめし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六畳|二間《ふたま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]
−−
一
……雨はまだ降りつづけていた。僕等は午飯《ひるめし》をすませた後《のち》、敷島《しきしま》を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂《うわさ》などした。
僕等のいるのは何もない庭へ葭簾《よしず》の日除《ひよ》けを差しかけた六畳|二間《ふたま》の離れだった。庭には何もないと言っても、この海辺《うみべ》に多い弘法麦《こうぼうむぎ》だけは疎《まば》らに砂の上に穂《ほ》を垂れていた。その穂は僕等の来た時にはまだすっかり出揃《でそろ》わなかった。出ているのもたいていはまっ青《さお》だった。が、今はいつのまにかどの穂も同じように狐色《きつねいろ》に変り、穂先ごとに滴《しずく》をやどしていた。
「さあ、仕事でもするかな。」
Mは長ながと寝ころんだまま、糊《のり》の強い宿の湯帷子《ゆかた》の袖に近眼鏡《きんがんきょう》の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければならぬ、その創作のことを指《さ》すのだった。
Mの次の間《ま》へ引きとった後《のち》、僕は座蒲団《ざぶとん》を枕にしながら、里見八犬伝《さとみはっけんでん》を読みはじめた。きのう僕の読みかけたのは信乃《しの》、現八《げんぱち》、小文吾《こぶんご》などの荘助《そうすけ》を救いに出かけるところだった。「その時|蜑崎照文《あまざきてるぶみ》は懐《ふとこ》ろより用意の沙金《さきん》を五包《いつつつ》みとり出《いだ》しつ。先ず三包《みつつ》みを扇にのせたるそがままに、……三犬士《さんけんし》、この金《かね》は三十|両《りょう》をひと包みとせり。もっとも些少《さしょう》の東西《もの》なれども、こたびの路用を資《たす》くるのみ。わが私《わたくし》の餞別《はなむけ》ならず、里見殿《さとみどの》の賜《たま》ものなるに、辞《いろ》わで納め給えと言う。」――僕はそこを読みながら、おととい届《とど》いた原稿料の一枚四十銭だったのを思い出し
次へ
全8ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング