た。僕等は二人ともこの七月に大学の英文科を卒業していた。従って衣食の計《はかりごと》を立てることは僕等の目前に迫っていた。僕はだんだん八犬伝を忘れ、教師《きょうし》になることなどを考え出した。が、そのうちに眠ったと見え、いつかこう言う短い夢を見ていた。
 ――それは何《なん》でも夜更《よふ》けらしかった。僕はとにかく雨戸《あまど》をしめた座敷にたった一人横になっていた。すると誰か戸を叩《たた》いて「もし、もし」と僕に声をかけた。僕はその雨戸の向うに池のあることを承知していた。しかし僕に声をかけたのは誰だか少しもわからなかった。
「もし、もし、お願いがあるのですが、……」
 雨戸の外の声はこう言った。僕はその言葉を聞いた時、「ははあ、Kのやつだな」と思った。Kと言うのは僕等よりも一年|後《ご》の哲学科にいた、箸《はし》にも棒にもかからぬ男だった。僕は横になったまま、かなり大声《おおごえ》に返事をした。
「哀《あわ》れっぽい声を出したって駄目《だめ》だよ。また君、金《かね》のことだろう?」
「いいえ、金のことじゃありません。ただわたしの友だちに会わせたい女があるんですが、……」
 その声はどうもKらしくなかった。のみならず誰か僕のことを心配してくれる人らしかった。僕は急にわくわくしながら、雨戸をあけに飛び起きて行った。実際庭は縁先《えんさき》からずっと広い池になっていた。けれどもそこにはKは勿論、誰も人かげは見えなかった。
 僕はしばらく月の映《うつ》った池の上を眺めていた。池は海草《かいそう》の流れているのを見ると、潮入《しおい》りになっているらしかった。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立っているのを見つけた。さざ波は足もとへ寄って来るにつれ、だんだん一匹の鮒《ふな》になった。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭《おひれ》を動かしていた。
「ああ、鮒が声をかけたんだ。」
 僕はこう思って安心した。――
 僕の目を覚ました時にはもう軒先《のきさき》の葭簾《よしず》の日除《ひよ》けは薄日の光を透《す》かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸《いど》ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後《あと》でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域下《しきいきか》の我《われ》と言うやつなんだ。」――そんな気も多少はしたのだった。


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