奇遇
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)編輯者《へんしゅうしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出発|前《まえ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「禾+槇のつくり」、第3水準1−89−46]
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編輯者《へんしゅうしゃ》 支那《シナ》へ旅行するそうですね。南ですか? 北ですか?
小説家 南から北へ周《めぐ》るつもりです。
編輯者 準備はもう出来たのですか?
小説家 大抵《たいてい》出来ました。ただ読む筈だった紀行や地誌なぞが、未だに読み切れないのに弱っています。
編輯者 (気がなさそうに)そんな本が何冊もあるのですか?
小説家 存外ありますよ。日本人が書いたのでは、七十八日遊記、支那文明記、支那漫遊記、支那仏教遺物、支那風俗、支那人気質、燕山楚水《えんざんそすい》、蘇浙小観《そせつしょうかん》、北清《ほくしん》見聞録、長江《ちょうこう》十年、観光紀游、征塵録《せいじんろく》、満洲、巴蜀《はしょく》、湖南《こなん》、漢口《かんこう》、支那風韻記《しなふういんき》、支那――
編輯者 それをみんな読んだのですか?
小説家 何、まだ一冊も読まないのです。それから支那人が書いた本では、大清一統志《たいしんいっとうし》、燕都遊覧志《えんとゆうらんし》、長安客話《ちょうあんかくわ》、帝京《ていきょう》――
編輯者 いや、もう本の名は沢山です。
小説家 まだ西洋人が書いた本は、一冊も云わなかったと思いますが、――
編輯者 西洋人の書いた支那の本なぞには、どうせ碌《ろく》な物はないでしょう。それより小説は出発|前《まえ》に、きっと書いて貰えるでしょうね。
小説家 (急に悄気《しょげ》る)さあ、とにかくその前には、書き上げるつもりでいるのですが、――
編輯者 一体|何時《いつ》出発する予定ですか?
小説家 実は今日《きょう》出発する予定なのです。
編輯者 (驚いたように)今日ですか?
小説家 ええ、五時の急行に乗る筈なのです。
編輯者 するともう出発前には、半時間しかないじゃありませんか?
小説家 まあそう云う勘定《かんじょう》です。
編輯者 (腹を立てたように)では小説はどうなるのですか?
小説家 (い
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