よいよ悄気《しょげ》る)僕もどうなるかと思っているのです。
編輯者 どうもそう無責任では困りますなあ。しかし何しろ半時間ばかりでは、急に書いても貰えないでしょうし、………
小説家 そうですね。ウェデキンドの芝居だと、この半時間ばかりの間《あいだ》にも、不遇の音楽家が飛びこんで来たり、どこかの奥さんが自殺したり、いろいろな事件が起るのですが、――御待ちなさいよ。事によると机の抽斗《ひきだし》に、まだ何か発表しない原稿があるかも知れません。
編輯者 そうすると非常に好都合ですが――
小説家 (机の抽斗を探しながら)論文ではいけないでしょうね。
編輯者 何と云う論文ですか?
小説家 「文芸に及ぼすジャアナリズムの害毒」と云うのです。
編輯者 そんな論文はいけません。
小説家 これはどうですか? まあ、体裁の上では小品《しょうひん》ですが、――
編輯者 「奇遇《きぐう》」と云う題ですね。どんな事を書いたのですか?
小説家 ちょいと読んで見ましょうか? 二十分ばかりかかれば読めますから、――

       ×          ×          ×

 至順《しじゅん》年間の事である。長江《ちょうこう》に臨んだ古金陵《こきんりょう》の地に、王生《おうせい》と云う青年があった。生れつき才力が豊な上に、容貌《ようぼう》もまた美しい。何でも奇俊《きしゅん》王家郎《おうかろう》と称されたと云うから、その風采《ふうさい》想うべしである。しかも年は二十《はたち》になったが、妻はまだ娶《めと》っていない。家は門地《もんち》も正しいし、親譲りの資産も相当にある。詩酒の風流を恣《ほしいまま》にするには、こんな都合《つごう》の好《い》い身分はない。
 実際また王生は、仲の好《い》い友人の趙生《ちょうせい》と一しょに、自由な生活を送っていた。戯《ぎ》を聴《き》きに行く事もある。博《はく》を打って暮らす事もある。あるいはまた一晩中、秦淮《しんわい》あたりの酒家《しゅか》の卓子《たくし》に、酒を飲み明かすことなぞもある。そう云う時には落着いた王生が、花磁盞《かじさん》を前にうっとりと、どこかの歌の声に聞き入っていると、陽気な趙生は酢蟹《すがに》を肴に、金華酒《きんかしゅ》の満《まん》を引きながら、盛んに妓品《ぎひん》なぞを論じ立てるのである。
 その王生がどう云う訳か、去年の秋以来忘れたように、
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