立てるために、僕自身あそこへ下《くだ》って行く。所がちょうど去年の秋、やはり松江へ下った帰りに、舟が渭塘《いとう》のほとりまで来ると、柳や槐《えんじゅ》に囲まれながら、酒旗《しゅき》を出した家が一軒見える。朱塗りの欄干《らんかん》が画《えが》いたように、折れ曲っている容子《ようす》なぞでは、中々大きな構えらしい。そのまた欄干の続いた外には、紅い芙蓉《ふよう》が何十株《なんじっかぶ》も、川の水に影を落している。僕は喉《のど》が渇《かわ》いていたから、早速その酒旗の出ている家へ、舟をつけろと云いつけたものだ。
「さてそこへ上《あが》って見ると、案《あん》の定《じょう》家も手広ければ、主《あるじ》の翁《おきな》も卑しくない。その上酒は竹葉青《ちくようせい》、肴《さかな》は鱸《すずき》に蟹《かに》と云うのだから、僕の満足は察してくれ給え。実際僕は久しぶりに、旅愁《りょしゅう》も何も忘れながら、陶然《とうぜん》と盃《さかずき》を口にしていた。その内にふと気がつくと、誰《たれ》か一人幕の陰から、時々こちらを覗《のぞ》くものがある。が、僕はそちらを見るが早いか、すぐに幕の後《うしろ》へ隠れてしまう。そうして僕が眼を外《そ》らせば、じっとまたこちらを見つめている。何だか翡翠《ひすい》の簪《かんざし》や金の耳環《みみわ》が幕の間《あいだ》に、ちらめくような気がするが、確かにそうかどうか判然しない。現に一度なぞは玉のような顔が、ちらりとそこに見えたように思う。が、急にふり返ると、やはりただ幕ばかりが、懶《ものう》そうにだらりと下《さが》っている。そんな事を繰《く》り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭《ぜに》を抛《ほう》り出すと、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》また舟へ帰って来た。
「ところがその晩舟の中に、独りうとうとと眠っていると、僕は夢にもう一度、あの酒旗の出ている家《うち》へ行った。昼来た時には知らなかったが、家《うち》には門が何重《なんじゅう》もある、その門を皆通り抜けた、一番奥まった家《いえ》の後《うしろ》に、小さな綉閣《しゅうかく》が一軒見える。その前には見事な葡萄棚《ぶどうだな》があり、葡萄棚の下には石を畳《たた》んだ、一丈ばかりの泉水がある。僕はその池のほとりへ来た時、水の中の金魚が月の光に、はっき
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