説家 まだ最後ではないのです。もう少し後《あと》があるのですから、まあ、我慢して聞いて下さい。

       ×          ×          ×

 しかし銭塘の瞿祐は勿論、幸福に満ちた王生夫婦も、舟が渭塘を離れた時、少女の父母が交換した、下《しも》のような会話を知らなかった。父母は二人とも目《ま》かげをしながら、水際《みずぎわ》の柳や槐《えんじゅ》の陰に、その舟を見送っていたのである。
「お婆さん。」
「お爺さん。」
「まずまず無事に芝居もすむし、こんな目出たい事はないね。」
「ほんとうにこんな目出たい事には、もう二度とは遇《あ》えませんね。ただ私は娘や壻《むこ》の、苦しそうな嘘を聞いているのが、それはそれは苦労でしたよ。お爺さんは何も知らないように、黙っていろと御云いなすったから、一生懸命にすましていましたが、今更《いまさら》あんな嘘をつかなくっても、すぐに一しょにはなれるでしょうに、――」
「まあ、そうやかましく云わずにやれ。娘も壻も極《きま》り悪さに、智慧袋《ちえぶくろ》を絞ってついた嘘だ。その上壻の身になれば、ああでも云わぬと、一人娘は、容易にくれまいと思ったかも知れぬ。お婆さん、お前はどうしたと云うのだ。こんな目出たい婚礼に、泣いてばかりいてはすまないじゃないか?」
「お爺さん。お前さんこそ泣いている癖に……」

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小説家 もう五六枚でおしまいです。次手《ついで》に残りも読んで見ましょう。
編輯者 いや、もうその先は沢山です。ちょいとその原稿を貸して下さい。あなたに黙って置くと、だんだん作品が悪くなりそうです。今までも中途で切った方が、遥《はるか》に好かったと思いますが、――とにかくこの小品《しょうひん》は貰いますから、そのつもりでいて下さい。
小説家 そこで切られては困るのですが、――
編輯者 おや、もうよほど急がないと、五時の急行には間《ま》に合いませんよ。原稿の事なぞはかまっていずに、早く自動車でも御呼びなさい。
小説家 そうですか。それは大変だ。ではさようなら。何分《なにぶん》よろしく。
編輯者 さようなら、御機嫌好う。
[#地から1字上げ](大正十年三月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   19
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