所です。そう云えば顔も似ていますな。だからです。だから一つ牧野さんだと思って、――可愛い牧野さんだと思って御上《おあが》んなさい。」
「何を云っているんだ。」
牧野はやむを得ず苦笑《くしょう》した。
「牡が一匹いる所に、――ねえ、牧野さん、君によく似ているだろう。」
田宮は薄痘痕《うすいも》のある顔に、一ぱいの笑いを浮べたなり、委細《いさい》かまわずしゃべり続けた。
「今日僕の友だちに、――この缶詰屋に聞いたんだが、膃肭獣《おっとせい》と云うやつは、牡同志が牝を取り合うと、――そうそう膃肭獣の話よりゃ、今夜は一つお蓮さんに、昔のなりを見せて貰《もら》うんだった。どうです? お蓮さん。今こそお蓮さんなんぞと云っているが、お蓮さんとは世を忍ぶ仮の名さ。ここは一番|音羽屋《おとわや》で行きたいね。お蓮さんとは――」
「おい、おい、牝を取り合うとどうするんだ? その方をまず伺いたいね。」
迷惑らしい顔をした牧野は、やっともう一度|膃肭獣《おっとせい》の話へ、危険な話題を一転させた。が、その結果は必ずしも、彼が希望していたような、都合《つごう》の好《い》いものではなさそうだった。
「牝を取り合うとか? 牝を取り合うと、大喧嘩をするんだそうだ。その代りだね、その代り正々堂々とやる。君のように暗打ちなんぞは食わせない。いや、こりゃ失礼。禁句禁句《きんくきんく》金看板《きんかんばん》の甚九郎《じんくろう》だっけ。――お蓮さん。一つ、献じましょう。」
田宮は色を変えた牧野に、ちらりと顔を睨《にら》まれると、てれ隠しにお蓮へ盃《さかずき》をさした。しかしお蓮は無気味《ぶきみ》なほど、じっと彼を見つめたぎり、手も出そうとはしなかった。
十五
お蓮《れん》が床《とこ》を抜け出したのは、その夜の三時過ぎだった。彼女は二階の寝間《ねま》を後《うしろ》に、そっと暗い梯子《はしご》を下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽斗《ひきだし》から、剃刀《かみそり》の箱を取り出した。
「牧野《まきの》め。牧野の畜生め。」
お蓮はそう呟《つぶや》きながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が、磨《と》ぎ澄ました鋼《はがね》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]が、かすかに彼女の鼻を打った。
いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳《じゃけん》な継母《ままはは》との争いから、荒《すさ》むままに任せた野性だった。白粉《おしろい》が地肌《じはだ》を隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。………
「牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、――」
お蓮は派手な長襦袢《ながじゅばん》の袖に、一挺の剃刀を蔽《おお》ったなり、鏡台の前に立ち上った。
すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。
「御止《およ》し。御止し。」
彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思ったのは、時計の振子《ふりこ》が暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。
「御止し。御止し。御止し。」
しかし梯子《はしご》を上《あが》りかけると、声はもう一度お蓮を捉《とら》えた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間《ま》の暗闇を透かして見た。
「誰だい?」
「私。私だ。私。」
声は彼女と仲が好《よ》かった、朋輩の一人に違いなかった。
「一枝《いっし》さんかい?」
「ああ、私。」
「久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?」
お蓮はいつか長火鉢の前へ、昼間のように坐っていた。
「御止《およ》し。御止しよ。」
声は彼女の問に答えず、何度も同じ事を繰返すのだった。
「何故《なぜ》またお前さんまでが止めるのさ? 殺したって好いじゃないか?」
「お止し。生きているもの。生きているよ。」
「生きている? 誰が?」
そこに長い沈黙があった。時計はその沈黙の中にも、休みない振子《ふりこ》を鳴らしていた。
「誰が生きているのさ?」
しばらく無言《むごん》が続いた後《のち》、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前を囁《ささや》いてくれた。
「金《きん》――金さん。金さん。」
「ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、――」
お蓮は頬杖《ほおづえ》をついたまま、物思わしそうな眼つきになった。
「だって金《きん》さんが生きているんなら、私に会いに来そうなもんじゃないか?」
「来るよ。来るとさ。」
「来るって? いつ?」
「明日《あした》。弥勒寺《みろくじ》へ会いに来るとさ。弥勒寺へ。明日《あした》の晩。」
「弥勒寺って、弥勒寺橋だろうねえ。」
「弥勒寺橋へね。夜来る。来るとさ。」
それぎり声は聞こえなくなった。が、長襦袢《ながじゅばん》一つのお蓮は、夜明前の寒さも知らないように、長い間《あいだ》じっと坐っていた。
十六
お蓮《れん》は翌日《よくじつ》の午《ひる》過ぎまでも、二階の寝室を離れなかった。が、四時頃やっと床《とこ》を出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番|好《よ》い着物を着始めた。
「おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?」
その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろしていた牧野《まきの》は、風俗画報《ふうぞくがほう》を拡げながら、不審そうに彼女へ声をかけた。
「ちょいと行く所がありますから、――」
お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿《か》の子《こ》の帯上げを結んでいた。
「どこへ?」
「弥勒寺橋《みろくじばし》まで行けば好いんです。」
「弥勒寺橋?」
牧野はそろそろ訝《いぶか》るよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちを唆《そそ》るのだった。
「弥勒寺橋に何の用があるんだい?」
「何の用ですか、――」
彼女はちらりと牧野の顔へ、侮蔑《ぶべつ》の眼の色を送りながら、静に帯止めの金物《かなもの》を合せた。
「それでも安心して下さい。身なんぞ投げはしませんから、――」
「莫迦《ばか》な事を云うな。」
牧野はばたりと畳の上へ、風俗画報を抛《ほう》り出すと、忌々《いまいま》しそうに舌打ちをした。……
「かれこれその晩の七時頃だそうだ。――」
今までの事情を話した後《のち》、私《わたくし》の友人のKと云う医者は、徐《おもむろ》にこう言葉を続けた。
「お蓮は牧野が止めるのも聞かず、たった一人|家《うち》を出て行った。何しろ婆さんなぞが心配して、いくら一しょに行きたいと云っても、当人がまるで子供のように、一人にしなければ死んでしまうと、駄々《だだ》をこねるんだから仕方がない。が、勿論お蓮一人、出してやれたもんじゃないから、そこは牧野が見え隠れに、ついて行く事にしたんだそうだ。
「ところが外へ出て見ると、その晩はちょうど弥勒寺橋の近くに、薬師《やくし》の縁日《えんにち》が立っている。だから二《ふた》つ目《め》の往来《おうらい》は、いくら寒い時分でも、押し合わないばかりの人通りだ。これはお蓮の跡をつけるには、都合《つごう》が好かったのに違いない。牧野がすぐ後《うしろ》を歩きながら、とうとう相手に気づかれなかったのも、畢竟《ひっきょう》は縁日の御蔭なんだ。
「往来にはずっと両側に、縁日商人《えんにちあきんど》が並んでいる。そのカンテラやランプの明りに、飴屋《あめや》の渦巻の看板だの豆屋の赤い日傘だのが、右にも左にもちらつくんだ。が、お蓮はそんな物には、全然|側目《わきめ》もふらないらしい。ただ心もち俯向《うつむ》いたなり、さっさと人ごみを縫って行くんだ。何でも遅れずに歩くのは、牧野にも骨が折れたそうだから、余程《よっぽど》先を急いでいたんだろう。
「その内に弥勒寺橋《みろくじばし》の袂《たもと》へ来ると、お蓮はやっと足を止めて、茫然とあたりを見廻したそうだ。あすこには河岸《かし》へ曲った所に、植木屋ばかりが続いている。どうせ縁日物《えんにちもの》だから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とか檜《ひのき》とかが、ここだけは人足《ひとあし》の疎《まば》らな通りに、水々しい枝葉《えだは》を茂らしているんだ。
「こんな所へ来たは好《い》いが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、妾《めかけ》の容子《ようす》を窺《うかが》っていた。が、お蓮は不相変《あいかわらず》、ぼんやりそこに佇《たたず》んだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手の後《うしろ》へ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語《ごと》を呟《つぶや》いてたと云うじゃないか?――『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』………
十七
「それだけならばまだ好《よ》いが、――」
Kはさらに話し続けた。
「そこへ雪のような小犬が一匹、偶然人ごみを抜けて来ると、お蓮《れん》はいきなり両手を伸ばして、その白犬を抱《だ》き上げたそうだ。そうして何を云うかと思えば、『お前も来てくれたのかい? 随分ここまでは遠かったろう。何しろ途中には山もあれば、大きな海もあるんだからね。ほんとうにお前に別れてから、一日も泣かずにいた事はないよ。お前の代《かわ》りに飼った犬には、この間死なれてしまうしさ。』なぞと、夢のような事をしゃべり出すんだ。が、小犬は人懐《ひとな》つこいのか、啼《な》きもしなければ噛《か》みつきもしない。ただ鼻だけ鳴らしては、お蓮の手や頬《ほお》を舐《な》め廻すんだ。
「こうなると見てはいられないから、牧野《まきの》はとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、金《きん》さんがここへ来るまでは、決して家《うち》へは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には『やあ、別嬪《べっぴん》の気違いだ』と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬を抱《だ》いたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をした後《のち》、ともかくも牧野の云う通り一応は家《うち》へ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬《やじうま》は容易に退《の》くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋《みろくじばし》の方へ引っ返そうとする。それを宥《なだ》めたり賺《すか》したりしながら、松井町《まついちょう》の家《うち》へつれて来た時には、さすがに牧野も外套《がいとう》の下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」
お蓮は家《いえ》へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上《のぼ》って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台《ねだい》から石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。
「おや、――」
座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠璃燈《るりとう》が一つ、彼女の真上に吊下《つりさが》っていた。
「まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。」
彼女はしばらくはうっとりと、燦《きら》びやかな燈火《ともしび》を眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度|頭《かしら》を振った。
「私は昔の※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蓮《けいれん》じゃない。今はお蓮と云う日本人《にほんじん》だもの。金《きん》さんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、――」
ふと頭《かしら》を擡《もた》げたお蓮は、もう一度驚きの声を洩《も》らした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へ肘《ひじ》をのせながら、悠々と鴉片《あへん》を燻《くゆ》らせている! 迫った額、長い睫毛《まつげ》、それから左の目尻《めじり》の黒子《ほ
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