くろ》。――すべてが金に違いなかった。のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙管《きせる》を啣《くわ》えたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか?
「御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。」
 成程《なるほど》二階の亜字欄《あじらん》の外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍《ぬいとり》の模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうに囀《さえず》っている、――そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一夜中《いちやじゅう》恍惚《こうこつ》と坐っていた。………
「それから一日か二日すると、お蓮――本名は孟※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蓮《もうけいれん》は、もうこのK脳病院の患者《かんじゃ》の一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛《いかいえい》のある妓館《ぎかん》とかに、客を取っていた女だそうだが、――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。」
 Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。
「この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけにその犬が側にいないと、金さん金さんと喚《わめ》き立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蓮《けいれん》を妾《めかけ》にしたと云っても、帝国軍人の片破《かたわ》れたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へつれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。――え、金はどうした? そんな事は尋《き》くだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。」
[#地から1字上げ](大正九年十二月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
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