光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後《うしろ》を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢《びん》を掻《か》き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度|咄嗟《とっさ》に通り過ぎた。お蓮は櫛《くし》を持ったまま、とうとう後《うしろ》を振り返った。しかし明《あかる》い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後《のち》白い物は、三度彼女の後《うしろ》を通った。……
またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来《おうらい》に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交《まじ》りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々《ちかぢか》と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床《とこ》の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額《ひたい》、長い睫毛《まつげ》、――すべてが夜半《やはん》のランプの光に、寸分《すんぶん》も以前と変らなかった。左の眼尻《めじり》に黒子《ほくろ》があったが、――そんな事さえ検《くら》べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍《おど》らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸《くび》へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟《つぶや》いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那《せつな》に、実際酒臭い牧野の頸《くび》へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾《さわが》すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。
十二
牧野《まきの》の妻が訪れたのは、生憎《あいにく》例の雇婆《やといばあ》さんが、使いに行っている留守《るす》だった。案内を請う声に驚かされたお蓮《れん》は、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸《こうしど》が、軒さきの御飾りを透《すか》せている、――そこにひどく顔色の悪い、眼鏡《めがね》をかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向《うつむ》き勝に佇《たたず》んでいた。
「どなた様でございますか?」
お蓮はそう尋ねながら、相手の正体《しょうたい》を直覚していた。そうしてこの根《ね》の抜けた丸髷《まるまげ》に、小紋《こもん》の羽織の袖《そで》を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。
「私《わたくし》は――」
女はちょいとためらった後《のち》、やはり俯向き勝に話し続けた。
「私《わたくし》は牧野の家内でございます。滝《たき》と云うものでございます。」
今度はお蓮が口ごもった。
「さようでございますか。私《わたくし》は――」
「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」
女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩《こも》っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好《よ》いか、挨拶《あいさつ》のしように困るのだった。
「つきましては今日《こんにち》は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」
「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」
まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目《ふしめ》勝ちな牧野の妻が、静《しずか》に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々《きんきん》に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」
相手はゆっくりこんな事を云った。その容子《ようす》はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気《あっけ》にとられたなり、しばらくはただ外光に背《そむ》いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」
お蓮は舌が剛《こわ》ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡《もた》げた相手は、細々と冷たい眼を開《あ》きながら、眼鏡《めがね》越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢《あくむ》のような、気味の悪い心地を起させるのだった。
「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀《かわい》そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」
牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故《なぜ》か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金《きん》さんにも遇《あ》える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出《みいだ》したのだった。
が、何分《なんぷん》か過ぎ去った後《のち》、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。
十三
七草《ななくさ》の夜《よ》、牧野《まきの》が妾宅へやって来ると、お蓮《れん》は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻《くゆ》らせていた。
「御新造《ごしんぞ》はどうかしているんですよ。」
いつか興奮し出したお蓮は、苛立《いらだ》たしい眉《まゆ》をひそめながら、剛情に猶《なお》も云い続けた。
「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」
「まあ、なったらなった時の事さ。」
牧野は葉巻の煙の中から、薄眼《うすめ》に彼女を眺めていた。
「嚊《かかあ》の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好《い》い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」
「私《わたし》はどうなっても好《い》いんですけれど、――」
「好《よ》くはないよ。」
お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤《つぐ》んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
「あなた、後生《ごしょう》ですから、御新造《ごしんぞ》を捨てないで下さい。」と云った。
牧野は呆気《あっけ》にとられたのか、何とも答を返さなかった。
「後生ですから、ねえ、あなた――」
お蓮は涙を隠すように、黒繻子《くろじゅす》の襟へ顎《あご》を埋《うず》めた。
「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」
「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」
葉巻《はまき》を吸うのも忘れた牧野は、子供を欺《だま》すようにこう云った。
「一体この家《うち》が陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好《い》い所があったら、早速《さっそく》引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も経《た》ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」
お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色《かおいろ》を改めなかった。……
「御新造《ごしんぞ》の事では旦那様《だんなさま》も、随分御心配なすったもんですが、――」
Kにいろいろ尋《き》かれた時、婆さんはまた当時の容子《ようす》をこう話したとか云う事だった。
「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦《おあきら》めになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網《よこあみ》へ御出でなすった時でも、私《わたくし》が御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しに睨《にら》みながら、あちらの御新造はまた上《あが》ろうともなさらず、悪丁寧《わるでいねい》な嫌味《いやみ》のありったけを並べて御出でなさる始末《しまつ》なんです。
「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、好《い》い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年|前《まえ》には、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、反《かえ》って先様《さきさま》の御腹立ちを煽《あお》る事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態《あくたい》を御つきになった揚句《あげく》、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の襖《ふすま》の蔭から、顔を出さずにしまいました。
「ところがこちらの御新造は、私《わたくし》の顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。私《わたくし》なんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人《けっこうじん》だろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」
十四
しかしお蓮《れん》の憂鬱は、二月にはいって間《ま》もない頃、やはり本所《ほんじょ》の松井町《まついちょう》にある、手広い二階家へ住むようになっても、不相変《あいかわらず》晴れそうな気色《けしき》はなかった。彼女は婆さんとも口を利《き》かず、大抵《たいてい》は茶の間《ま》にたった一人、鉄瓶のたぎりを聞き暮していた。
するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田宮《たみや》が、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧野《まきの》は、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口《ちょく》をさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯衣《シャツ》を覗かせた懐《ふところ》から、赤い缶詰《かんづめ》を一つ出した。そうしてお蓮の酌を受けながら、
「これは御土産《おみやげ》です。お蓮夫人。これはあなたへ御土産です。」と云った。
「何だい、これは?」
牧野はお蓮が礼を云う間《あいだ》に、その缶詰を取り上げて見た。
「貼紙《ペーパー》を見給え。膃肭獣《おっとせい》だよ。膃肭獣の缶詰さ。――あなたは気のふさぐのが病だって云うから、これを一つ献上します。産前、産後、婦人病|一切《いっさい》によろしい。――これは僕の友だちに聞いた能書《のうが》きだがね、そいつがやり始めた缶詰だよ。」
田宮は唇を嘗《な》めまわしては、彼等二人を見比べていた。
「食えるかい、お前、膃肭獣《おっとせい》なんぞが?」
お蓮は牧野にこう云われても、無理にちょいと口元へ、微笑を見せたばかりだった。が、田宮は手を振りながら、すぐにその答えを引き受けた。
「大丈夫。大丈夫だとも。――ねえ、お蓮さん。この膃肭獣《おっとせい》と云うやつは、牡《おす》が一匹いる所には、牝《めす》が百匹もくっついている。まあ人間にすると、牧野さんと云う
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