彼はまだ足を止めずに、お蓮の方を振り返った。
「誰か呼んでいるようですもの。」
 お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。
「呼んでいる?」
 牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。
「空耳《そらみみ》だよ。何が呼んでなんぞいるものか。」
「気のせいですかしら。」
「あんな幻燈を見たからじゃないか?」

        八

 寄席《よせ》へ行った翌朝《よくあさ》だった。お蓮《れん》は房楊枝《ふさようじ》を啣《くわ》えながら、顔を洗いに縁側《えんがわ》へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥《みみだらい》に湯を汲んだのが、鉢前《はちまえ》の前に置いてあった。
 冬枯《ふゆがれ》の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽《うが》いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜《ゆうべ》の夢を思い出した。
 それは彼女がたった一人、暗い藪《やぶ》だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿《たど》りながら、「とうとう私の念力《ねんりき》が届いた。東京はもう見渡す限り、人気《ひとけ》のない森に変っている。きっと今に金《きん》さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負《きお》って見ても、何故《なぜ》か一向走れなかった。…………
 お蓮は顔を洗ってしまうと、手水《ちょうず》を使うために肌《はだ》を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触《ふ》れた。
「しっ!」
 彼女は格別驚きもせず、艶《なまめ》いた眼を後《うしろ》へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻《しきり》に黒い鼻を舐《な》め廻していた。

        九

 牧野《まきの》はその後《ご》二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮《たみや》と云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通《かよ》っている田宮は、お蓮《れん》が牧野に囲《かこ》われるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。
「妙なもんじゃないか? こうやって丸髷《まるまげ》に結《ゆ》っていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」
 田宮は明《あかる》いランプの光に、薄痘痕《うすいも》のある顔を火照《ほて》らせながら、向い合った牧野へ盃《さかずき》をさした。
「ねえ、牧野さん。これが島田《しまだ》に結《ゆ》っていたとか、赤熊《しゃぐま》に結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――」
「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」
 牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。
「大丈夫。聞えた所がわかるもんか。――ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」
 お蓮は眼を外《そ》らせたまま、膝《ひざ》の上の小犬にからかっていた。
「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事《おおごと》だと、無事に神戸《こうべ》へ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉《も》みましたぜ。」
「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」
「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」
 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面《じゅうめん》をつくって見せた。
「だがお蓮の今日《こんにち》あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」
 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口《ちょく》をさしつけた。
「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海《げんかい》へかかったとなると、恐ろしいしけ[#「しけ」に傍点]を食《くら》ってね。――ねえ、お蓮さん。」
「ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。」
 お蓮は田宮の酌《しゃく》をしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりは反《かえ》って益《まし》かも知れない。――そんな事もふと考えられた。
「それがまあこうしていられるんだから、御互様《おたがいさま》に仕合せでさあ。――だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?」
「返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?」
「ないがさ、――ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?」
「着物どころか櫛簪《くしかんざし》までも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向《いっこう》御取上げにならなかったんだから、――」
 牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。
「そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」
「そうして君も序《ついで》ながら、昔馴染《むかしなじみ》を一人思い出すか。」
「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻《ハオピイチエ》だと、思い出し甲斐《がい》もあると云うものだが、――」
 田宮は薄痘痕《うすいも》のある顔に、擽《くすぐ》ったそうな笑いを浮べながら、すり芋《いも》を箸《はし》に搦《から》んでいた。……
 その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。
「そうすりゃここにいなくとも好《い》いから、どこか手広い家《うち》へ引っ越そうじゃないか?」
 牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産《みやげ》に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。
「この家《うち》だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」
 お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙《いそが》しかった。
「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」
「だって御新造《ごしんぞ》がいるじゃありませんか?」
「嚊《かかあ》かい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」
 牧野の口調《くちょう》や顔色では、この意外な消息《しょうそく》も、満更冗談とは思われなかった。
「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」
「かまうものか。己《おのれ》に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」
 牧野は険《けわ》しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。

        十

「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮《たみや》の旦那《だんな》が御見えになった、ちょうどその明《あ》くる日ですよ。」
 お蓮《れん》に使われていた婆さんは、私《わたし》の友人のKと云う医者に、こう当時の容子《ようす》を話した。
「大方《おおかた》食中《しょくあた》りか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造《ごしんぞ》は何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹《ほうたん》を口へ啣《ふく》ませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、嫌《いや》じゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。
「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り語《ごと》をおっしゃるんですが、夜更《よふ》けにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を利《き》いていそうな気がして、あんまり好《よ》い気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ[#「からっ」に傍点]風《かぜ》のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の占《うらな》い者《しゃ》の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子《しょうじ》のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。
「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々《ないない》ほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が粗※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》をするたびに、掃除《そうじ》をしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払《やっかいばら》いをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台《きょうだい》の前へ仆《たお》れたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」
 ちょうど薬研堀《やげんぼり》の市《いち》の立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物《とぶつ》の流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別《いきわか》れをしたが、今度の犬には死別《しにわか》れをした。所詮《しょせん》犬は飼えないのが、持って生まれた因縁《いんねん》かも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。
 お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸《しがい》を眺めた。それから懶《ものう》い眼を挙げて、寒い鏡の面《おもて》を眺めた。鏡には畳に仆《たお》れた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を掩《おお》った。そうしてかすかな叫び声を洩らした。
 鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、赭《あか》い色に変っていたのだった。

        十一

 妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱《ほうらい》が飾られたりしても、お蓮《れん》は独り長火鉢の前に、屈托《くったく》らしい頬杖《ほおづえ》をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶《ものう》い眼ばかり注いでいた。
 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的《ほっさてき》な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未《いまだ》にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野《まきの》の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
 ある時は床《とこ》へはいった彼女が、やっと眠に就《つ》こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわり[#「じわり」に傍点]と重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕《まくら》から、そっと頭《かしら》を浮かせて見た。が、そこには掻巻《かいまき》の格子模様《こうしもよう》が、ランプの
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