紙《まきがみ》を眺めたまま、しばらくはただ考えていた。
「これは雷水解《らいすいかい》と云う卦《け》でな、諸事思うようにはならぬとあります。――」
お蓮は怯《お》ず怯《お》ず三枚の銭から、老人の顔へ視線を移した。
「まずその御親戚とかの若い方《かた》にも、二度と御遇《おあ》いにはなれそうもないな。」
玄象道人《げんしょうどうじん》はこう云いながら、また穴銭を一枚ずつ、薄赤い絹に包み始めた。
「では生きては居りませんのでしょうか?」
お蓮は声が震えるのを感じた。「やはりそうか」と云う気もちが、「そんな筈はない」と云う気もちと一しょに、思わず声へ出たのだった。
「生きていられるか、死んでいられるかそれはちと判じ悪《にく》いが、――とにかく御遇いにはなれぬものと御思いなさい。」
「どうしても遇えないでございましょうか?」
お蓮に駄目《だめ》を押された道人は、金襴《きんらん》の袋の口をしめると、脂《あぶら》ぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。
「滄桑《そうそう》の変《へん》と云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい。――とまず、卦《け》にはな、卦にはちゃんと出ています。」
お蓮はここへ来た時よりも、一層心細い気になりながら、高い見料《けんりょう》を払った後《のち》、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》家《うち》へ帰って来た。
その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬杖《ほおづえ》をついたなり、鉄瓶《てつびん》の鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。いや、むしろ積極的に、彼女が密《ひそ》かに抱《いだ》いていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町も、当時は物騒な最中だった。男はお蓮のいる家《うち》へ、不相変《あいかわらず》通って来る途中、何か間違いに遇ったのかも知れない。さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、――お蓮は白粉《おしろい》を刷《は》いた片頬《かたほお》に、炭火《すみび》の火照《ほて》りを感じながら、いつか火箸を弄《もてあそ》んでいる彼女自身を見出《みいだ》した。
「金《きん》、金、金、――」
灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりした。
五
「金《きん》、金、金、」
そうお蓮《れん》が書き続けていると、台所にいた雇婆《やといばあ》さんが、突然かすかな叫び声を洩らした。この家《うち》では台所と云っても、障子|一重《ひとえ》開けさえすれば、すぐにそこが板の間《ま》だった。
「何? 婆や。」
「まあ御新《ごしん》さん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと思ったら、――」
お蓮は台所へ出て行って見た。
竈《かまど》が幅をとった板の間には、障子《しょうじ》に映るランプの光が、物静かな薄暗をつくっていた。婆さんはその薄暗の中に、半天《はんてん》の腰を屈《かが》めながら、ちょうど今何か白い獣《けもの》を抱《だ》き上げている所だった。
「猫かい?」
「いえ、犬でございますよ。」
両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水々《みずみず》しい眼を動かしては、頻《しきり》に鼻を鳴らしている。
「これは今朝《けさ》ほど五味溜《ごみた》めの所に、啼《な》いていた犬でございますよ。――どうしてはいって参りましたかしら。」
「お前はちっとも知らなかったの?」
「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。」
婆さんは水口《みずぐち》の腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。
「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、――」
「御止《およ》しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」
お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱《だ》きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震《ふる》わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家《うち》にいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。
「可哀《かわい》そうに、――飼ってやろうかしら。」
婆さんは妙な瞬《またた》きをした。
「ねえ、婆や。飼ってやろうよ。お前に面倒はかけないから、――」
お蓮は犬を板の間《ま》へ下《おろ》すと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴《さかな》でも探してやる気か、台所の戸棚《とだな》に手をかけていた。
その翌日から妾宅には、赤い頸環《くびわ》に飾られた犬が、畳の上にいるようになった。
綺麗《きれい》好きな婆さんは、勿論《もちろん》この変化を悦ばなかった。殊に庭へ下りた犬が、泥足のまま上《あが》って来なぞすると、一日腹を立てている事もあった。が、ほかに仕事のないお蓮は、子供のように犬を可愛がった。食事の時にも膳《ぜん》の側には、必ず犬が控えていた。夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。
「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造《ごしんぞ》の寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――」
婆さんがかれこれ一年の後《のち》、私の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。
六
この小犬に悩まされたものは、雇婆《やといばあ》さん一人ではなかった。牧野《まきの》も犬が畳の上に、寝そべっているのを見た時には、不快そうに太い眉《まゆ》をひそめた。
「何だい、こいつは?――畜生《ちくしょう》。あっちへ行け。」
陸軍主計《りくぐんしゅけい》の軍服を着た牧野は、邪慳《じゃけん》に犬を足蹴《あしげ》にした。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立《さかだ》てながら、無性《むしょう》に吠《ほ》え立て始めたのだった。
「お前の犬好きにも呆《あき》れるぜ。」
晩酌《ばんしゃく》の膳についてからも、牧野はまだ忌々《いまいま》しそうに、じろじろ犬を眺めていた。
「前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃないか?」
「ええ、あれもやっぱり白犬でしたわ。」
「そう云えばお前があの犬と、何でも別れないと云い出したのにゃ、随分手こずらされたものだったけ。」
お蓮《れん》は膝の小犬を撫《な》でながら、仕方なさそうな微笑を洩らした。汽船や汽車の旅を続けるのに、犬を連れて行く事が面倒なのは、彼女にもよくわかっていた。が、男とも別れた今、その白犬を後《あと》に残して、見ず知らずの他国へ行くのは、どう考えて見ても寂しかった。だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどない啜《すす》り泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。………
「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦《ばか》らしいな。第一|人相《にんそう》が、――人相じゃない。犬相《けんそう》だが、――犬相が甚だ平凡だよ。」
もう酔《よい》のまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身《さしみ》なぞを犬に投げてやった。
「あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。」
「何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。」
「この犬は鼻が黒いでしょう。あの犬は鼻が赭《あこ》うござんしたよ。」
お蓮は牧野の酌をしながら、前に飼っていた犬の鼻が、はっきりと眼の前に見えるような気がした。それは始終|涎《よだれ》に濡れた、ちょうど子持ちの乳房《ちぶさ》のように、鳶色《とびいろ》の斑《ぶち》がある鼻づらだった。
「へええ、して見ると鼻の赭《あか》い方が、犬では美人の相《そう》なのかも知れない。」
「美男《びなん》ですよ、あの犬は。これは黒いから、醜男《ぶおとこ》ですわね。」
「男かい、二匹とも。ここの家《うち》へ来る男は、おればかりかと思ったが、――こりゃちと怪しからんな。」
牧野はお蓮の手を突《つっ》つきながら、彼一人上機嫌に笑い崩《くず》れた。
しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床《とこ》へはいると、古襖《ふるぶすま》一重《ひとえ》隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖《ふすま》へ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑《くしょう》を浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。
「おい、そこを開けてやれよ。」
が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た。そうして白い影のように、そこへ腹を落着けたなり、じっと彼等を眺め出した。
お蓮は何だかその眼つきが、人のような気がしてならなかった。
七
それから二三日経ったある夜、お蓮《れん》は本宅を抜けて来た牧野《まきの》と、近所の寄席《よせ》へ出かけて行った。
手品《てじな》、剣舞《けんぶ》、幻燈《げんとう》、大神楽《だいかぐら》――そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大入《おおい》りだった。二人はしばらく待たされた後《のち》、やっと高座《こうざ》には遠い所へ、窮屈《きゅうくつ》な腰を下《おろ》す事が出来た。彼等がそこへ坐った時、あたりの客は云い合わせたように、丸髷《まるまげ》に結《ゆ》ったお蓮の姿へ、物珍しそうな視線を送った。彼女にはそれが晴がましくもあれば、同時にまた何故《なぜ》か寂しくもあった。
高座には明るい吊《つり》ランプの下に、白い鉢巻をした男が、長い抜き身を振りまわしていた。そうして楽屋《がくや》からは朗々と、「踏み破る千山万岳の煙」とか云う、詩をうたう声が起っていた。お蓮にはその剣舞は勿論、詩吟も退屈なばかりだった。が、牧野は巻煙草へ火をつけながら、面白そうにそれを眺めていた。
剣舞の次は幻燈《げんとう》だった。高座《こうざ》に下《おろ》した幕の上には、日清戦争《にっしんせんそう》の光景が、いろいろ映ったり消えたりした。大きな水柱《みずばしら》を揚げながら、「定遠《ていえん》」の沈没する所もあった。敵の赤児を抱《だ》いた樋口大尉《ひぐちたいい》が、突撃を指揮する所もあった。大勢の客はその画《え》の中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝采《かっさい》を送った。中には「帝国万歳」と、頓狂な声を出すものもあった。しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。
「戦争もあの通りだと、楽《らく》なもんだが、――」
彼は牛荘《ニューチャン》の激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。が、彼女は不相変《あいかわらず》、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかに頷《うなず》いたばかりだった。それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。しかしそのほかにも画面の景色は、――雪の積った城楼《じょうろう》の屋根だの、枯柳《かれやなぎ》に繋《つな》いだ兎馬《うさぎうま》だの、辮髪《べんぱつ》を垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。
寄席がはねたのは十時だった。二人は肩を並べながら、しもうた[#「しもうた」に傍点]家《や》ばかり続いている、人気《ひとけ》のない町を歩いて来た。町の上には半輪の月が、霜の下りた家々の屋根へ、寒い光を流していた。牧野はその光の中へ、時々|巻煙草《まきたばこ》の煙を吹いては、さっきの剣舞でも頭にあるのか、
「鞭声《べんせい》粛々《しゅくしゅく》夜《よる》河《かわ》を渡る」なぞと、古臭い詩の句を微吟《びぎん》したりした。
所が横町《よこちょう》を一つ曲ると、突然お蓮は慴《おび》えたように、牧野の外套《がいとう》の袖を引いた。
「びっくりさせるぜ。何だ?」
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