じゅばん》一つのお蓮は、夜明前の寒さも知らないように、長い間《あいだ》じっと坐っていた。

        十六

 お蓮《れん》は翌日《よくじつ》の午《ひる》過ぎまでも、二階の寝室を離れなかった。が、四時頃やっと床《とこ》を出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番|好《よ》い着物を着始めた。
「おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?」
 その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろしていた牧野《まきの》は、風俗画報《ふうぞくがほう》を拡げながら、不審そうに彼女へ声をかけた。
「ちょいと行く所がありますから、――」
 お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿《か》の子《こ》の帯上げを結んでいた。
「どこへ?」
「弥勒寺橋《みろくじばし》まで行けば好いんです。」
「弥勒寺橋?」
 牧野はそろそろ訝《いぶか》るよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちを唆《そそ》るのだった。
「弥勒寺橋に何の用があるんだい?」
「何の用ですか、――」
 彼女はちらりと牧野の顔へ、侮蔑《ぶべつ》の眼の色を送りながら、静に帯止め
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