出さずにしまいました。
「ところがこちらの御新造は、私《わたくし》の顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。私《わたくし》なんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人《けっこうじん》だろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」

        十四

 しかしお蓮《れん》の憂鬱は、二月にはいって間《ま》もない頃、やはり本所《ほんじょ》の松井町《まついちょう》にある、手広い二階家へ住むようになっても、不相変《あいかわらず》晴れそうな気色《けしき》はなかった。彼女は婆さんとも口を利《き》かず、大抵《たいてい》は茶の間《ま》にたった一人、鉄瓶のたぎりを聞き暮していた。
 するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田宮《たみや》が、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧野《まきの》は、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口《ちょく》をさした
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