ら、ねえ、あなた――」
 お蓮は涙を隠すように、黒繻子《くろじゅす》の襟へ顎《あご》を埋《うず》めた。
「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」
「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」
 葉巻《はまき》を吸うのも忘れた牧野は、子供を欺《だま》すようにこう云った。
「一体この家《うち》が陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好《い》い所があったら、早速《さっそく》引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日も経《た》ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」
 お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色《かおいろ》を改めなかった。……
「御新造《ごしんぞ》の事では旦那様《だんなさま》も、随分御心配なすったもんですが、――」
 Kにいろいろ尋《き》かれた時、婆さんはまた当時の容子《ようす》をこう話したとか云う事だった
前へ 次へ
全53ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング