る犬の声に変っていた。……
 またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床《とこ》の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額《ひたい》、長い睫毛《まつげ》、――すべてが夜半《やはん》のランプの光に、寸分《すんぶん》も以前と変らなかった。左の眼尻《めじり》に黒子《ほくろ》があったが、――そんな事さえ検《くら》べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍《おど》らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸《くび》へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟《つぶや》いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那《せつな》に、実際酒臭い牧野の頸《くび》へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
 しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾《さわが》すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。

        十二

 牧野《まきの》の妻が訪れたのは、生憎《あいにく》例の雇婆《やといばあ》さんが、使いに行っている留守《るす》だった。案内を請
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