つ隔てた藪や林は、心細い響を立て易かった。お蓮は酒臭い夜着《よぎ》の襟に、冷たい頬《ほお》を埋《うず》めながら、じっとその響に聞き入っていた。こうしている内に彼女の眼には、いつか涙が一ぱいに漂って来る事があった。しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、間《ま》もなく彼女の心の上へ、昏々《こんこん》と下《くだ》って来るのだった。

        二

「どうしたんですよ? その傷は。」
 ある静かな雨降りの夜《よ》、お蓮《れん》は牧野《まきの》の酌《しゃく》をしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃痕《そりあと》の中に、大きな蚯蚓脹《みみずばれ》が出来ていた。
「これか? これは嚊《かかあ》に引っ掻《か》かれたのさ。」
 牧野は冗談かと思うほど、顔色《かおいろ》も声もけろりとしていた。
「まあ、嫌な御新造《ごしんぞ》だ。どうしてまたそんな事をしたんです?」
「どうしてもこうしてもあるものか。御定《おさだま》りの角《つの》をはやしたのさ。おれでさえこのくらいだから、お前なぞが遇《あ》って見ろ。たちまち喉笛《のどぶえ》へ噛みつかれるぜ。まず早い話が満洲犬《まんしゅ
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