とうとう私の念力《ねんりき》が届いた。東京はもう見渡す限り、人気《ひとけ》のない森に変っている。きっと今に金《きん》さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負《きお》って見ても、何故《なぜ》か一向走れなかった。…………
 お蓮は顔を洗ってしまうと、手水《ちょうず》を使うために肌《はだ》を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触《ふ》れた。
「しっ!」
 彼女は格別驚きもせず、艶《なまめ》いた眼を後《うしろ》へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻《しきり》に黒い鼻を舐《な》め廻していた。

        九

 牧野《まきの》はその後《ご》二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮《たみや》と云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通《かよ》っている田宮は、お蓮《れん》が牧野に囲《かこ》われるのに
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