彼はまだ足を止めずに、お蓮の方を振り返った。
「誰か呼んでいるようですもの。」
お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。
「呼んでいる?」
牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。
「空耳《そらみみ》だよ。何が呼んでなんぞいるものか。」
「気のせいですかしら。」
「あんな幻燈を見たからじゃないか?」
八
寄席《よせ》へ行った翌朝《よくあさ》だった。お蓮《れん》は房楊枝《ふさようじ》を啣《くわ》えながら、顔を洗いに縁側《えんがわ》へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥《みみだらい》に湯を汲んだのが、鉢前《はちまえ》の前に置いてあった。
冬枯《ふゆがれ》の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽《うが》いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜《ゆうべ》の夢を思い出した。
それは彼女がたった一人、暗い藪《やぶ》だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿《たど》りながら、「
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