た。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立《さかだ》てながら、無性《むしょう》に吠《ほ》え立て始めたのだった。
「お前の犬好きにも呆《あき》れるぜ。」
 晩酌《ばんしゃく》の膳についてからも、牧野はまだ忌々《いまいま》しそうに、じろじろ犬を眺めていた。
「前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃないか?」
「ええ、あれもやっぱり白犬でしたわ。」
「そう云えばお前があの犬と、何でも別れないと云い出したのにゃ、随分手こずらされたものだったけ。」
 お蓮《れん》は膝の小犬を撫《な》でながら、仕方なさそうな微笑を洩らした。汽船や汽車の旅を続けるのに、犬を連れて行く事が面倒なのは、彼女にもよくわかっていた。が、男とも別れた今、その白犬を後《あと》に残して、見ず知らずの他国へ行くのは、どう考えて見ても寂しかった。だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどない啜《すす》り泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。………
「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦《ばか》らしいな。第一|人相《にんそう》が、――人相じゃない。犬相《けんそう》だが、――
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