してはいって参りましたかしら。」
「お前はちっとも知らなかったの?」
「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。」
 婆さんは水口《みずぐち》の腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。
「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、――」
「御止《およ》しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」
 お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱《だ》きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震《ふる》わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家《うち》にいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。
「可哀《かわい》そうに、――飼ってやろうかしら。」
 婆さんは妙な瞬《またた》きをした。
「ねえ、婆や。飼ってやろうよ。お前に面倒はかけないから、――」
 お蓮は犬を板の間《ま》へ下《おろ》すと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴《さかな》でも探してやる気か、台所の戸棚《とだな》に手をかけていた。
 その翌日から妾宅には、赤い頸環《く
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