もこっちへは持って来なかったかい?」
「着物どころか櫛簪《くしかんざし》までも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向《いっこう》御取上げにならなかったんだから、――」
 牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。
「そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」
「そうして君も序《ついで》ながら、昔馴染《むかしなじみ》を一人思い出すか。」
「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻《ハオピイチエ》だと、思い出し甲斐《がい》もあると云うものだが、――」
 田宮は薄痘痕《うすいも》のある顔に、擽《くすぐ》ったそうな笑いを浮べながら、すり芋《いも》を箸《はし》に搦《から》んでいた。……
 その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。
「そうすりゃここにいなくとも好《い》いから、どこか手広い家《うち》へ引っ越そうじゃないか?」
 牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産《みやげ》に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。
「この家《うち》だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」
 お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙《いそが》しかった。
「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」
「だって御新造《ごしんぞ》がいるじゃありませんか?」
「嚊《かかあ》かい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」
 牧野の口調《くちょう》や顔色では、この意外な消息《しょうそく》も、満更冗談とは思われなかった。
「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」
「かまうものか。己《おのれ》に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」
 牧野は険《けわ》しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。

        十

「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮《たみや》の旦那《だんな》が御見えになった、ちょうどその明《あ》くる日ですよ。」
 お蓮《れん》に使
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