われていた婆さんは、私《わたし》の友人のKと云う医者に、こう当時の容子《ようす》を話した。
「大方《おおかた》食中《しょくあた》りか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造《ごしんぞ》は何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹《ほうたん》を口へ啣《ふく》ませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、嫌《いや》じゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。
「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り語《ごと》をおっしゃるんですが、夜更《よふ》けにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を利《き》いていそうな気がして、あんまり好《よ》い気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ[#「からっ」に傍点]風《かぜ》のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の占《うらな》い者《しゃ》の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子《しょうじ》のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。
「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々《ないない》ほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が粗※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》をするたびに、掃除《そうじ》をしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払《やっかいばら》いをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台《きょうだい》の前へ仆《たお》れ
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