《いへど》も、聊《いささ》か三円の果亭の為に辯ずる所なきを得ない。
仰《そもそも》鑑定家《かんていか》なるものはややもすると虫眼鏡《むしめがね》などをふり廻して、我々|素人《しろうと》を嚇《おど》かしにかかるが、元来彼等は書画の真贋《しんがん》をどの位まで正確に見分ける事が出来るかと云ふと、彼等も人間である以上、決して全智全能と云ふ次第ぢやない。何《なん》となれば、彼等の判断を下《くだ》すべきものはその書画の真贋《しんがん》である。或は真贋に関する範囲内での巧拙《かうせつ》である。所がその真贋なり巧拙なりの鑑定は何時《いつ》でも或客観的標準の定規《ぢやうぎ》を当てると云ふ訣《わけ》に行かう筈がない。たとへば落款《らくくわん》とか手法《しゆはふ》とか乃至《ないし》紙墨《しぼく》などと云ふ物質的材料を巧《たくみ》に真似《まね》たものになると、その真贋を鑑定するものは殆《ほとん》ど一種の直覚の外《ほか》に何もないと云ふ事に帰着してしまふ。が、如何《いか》に鋭敏な直覚を備へてゐたにした所で、唯過去に於て或書家なり画家なりがその書画を作つたと云ふ事実だけの問題になつたら、鑑定家にして占者《うら
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