ちがい》になるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、御冗談《ごじょうだん》ばっかり。」
 老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱《ゆううつ》な眼つきになった。
 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明《あか》るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇《たたず》みながら、眼の下の松林を眺めている。
 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠《まどお》に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に
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