ないように。さようなら。」
受話器を置いた陳彩《ちんさい》は、まるで放心したように、しばらくは黙然《もくねん》と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕《ボタン》を押した。
書記の今西はその響《ひびき》に応じて、心もち明《あ》けた戸の後から、痩《や》せた半身をさし延ばした。
「今西君。鄭《てい》君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出《おい》でを願いますと。」
陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
その内に更紗《さらさ》の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな蠅《はえ》が一匹、どこからここへ紛《まぎ》れこんだか、鈍《にぶ》い羽音《はおと》を立てながら、ぼんやり頬杖《ほおづえ》をついた陳のまわりに、不規則な円を描《えが》き始めた。…………
鎌倉《かまくら》。
陳彩《ちんさい》の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏《おそなつ》の日の暮が近づいて来た。しかし日の
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