、気違いのように椅子から立ち上った。彼の顔には、――血走った眼の中には、凄まじい殺意が閃《ひらめ》いていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見る内に、云いようのない恐怖に変って行った。
「誰だ、お前は?」
 彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍びこんだのも、――この窓際に立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
 彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい嗄《しわが》れ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」
 もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくまされたように、無気味《ぶきみ》なほど大きな眼をしながら、だんだん壁際の方へすさり始めた。が、その間も彼の唇《くちびる》は、「誰だ、お前は?」を繰返すように、時々声もなく動いていた。
 その内にもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側に跪《ひざまず》くと、そっとその細い頸《くび》へ手を廻した。それから頸に残っている、無残な指の痕《あと》に唇を当
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