わなわな震《ふる》える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠の下りている事は、すぐにそのノッブが教えてくれた。
 すると今度は櫛《くし》かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。
 こう云う物音は一《びと》つ一《ひと》つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。
 苦しい何秒かが過ぎた後、戸の向うからはかすかながら、ため息をつく声が聞えて来た。と思うとすぐに寝台《しんだい》の上へも、誰かが静に上《あが》ったようであった。
 もしこんな状態が、もう一分続いたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかも知れなかった。が、この時戸から洩れる蜘蛛《くも》の糸ほどの朧げな光が、天啓のように彼の眼を捉《とら》えた。陳は咄嗟《とっさ》に床《ゆか》へ這《は》うと、ノッブの下にある鍵穴《かぎあな》から、食い入るような視線を室内へ送った。
 その
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