「私《わたし》の家《うち》へかけてくれ給え。」
陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子《ふさこ》かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間《ま》に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸《マッチ》を摺《す》って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
……煙草の煙、草花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上《のぼ》る調子|外《はず》れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒《ビール》を前にしながら、たった一人茫然と、卓《テーブル》に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
女はまだ見た所、二十《
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