この窓から、そっとこの部屋の中を、――」
 しかし老女が一瞬の後に、その窓から外を覗《のぞ》いた時には、ただ微風に戦《そよ》いでいる夾竹桃の植込みが、人気《ひとけ》のない庭の芝原を透《す》かして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の別荘《べっそう》の坊ちゃんが、悪戯《いたずら》をなすったのでございますよ。」
「いいえ、御隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。何だか見た事があるような――そうそう、いつか婆《ばあ》やと長谷《はせ》へ行った時に、私たちの後をついて来た、あの鳥打帽をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら。」
 房子は何か考えるように、ゆっくり最後の言葉を云った。
「もしあの男でしたら、どう致しましょう。旦那様はお帰りになりませんし、――何なら爺《じい》やでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」
「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも怖《こわ》くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
 老女は不審《ふしん》そうに瞬《まばた》きをした。
「もし私の気のせいだったら、私はこのまま気違《きちがい》になるかも知れないわね。」
「奥様はまあ、御冗談《ごじょうだん》ばっかり。」
 老女は安心したように微笑しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆やは知らないからだわ。私はこの頃一人でいるとね、きっと誰かが私の後に立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
 房子はこう云いかけたまま、彼女自身の言葉に引き入れられたのか、急に憂鬱《ゆううつ》な眼つきになった。
 ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明《あか》るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇《たたず》みながら、眼の下の松林を眺めている。
 夫は今夜も帰って来ない。召使いたちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落している。その中に鈍い物音が、間遠《まどお》に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。
 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に
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