芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)横浜《よこはま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)主人|陳彩《ちんさい》は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
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 横浜《よこはま》。
 日華洋行《にっかようこう》の主人|陳彩《ちんさい》は、机に背広の両肘《りょうひじ》を凭《もた》せて、火の消えた葉巻《はまき》を啣《くわ》えたまま、今日も堆《うずたか》い商用書類に、繁忙な眼を曝《さら》していた。
 更紗《さらさ》の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変《あいかわらず》残暑の寂寞《せきばく》が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
 書類が一山片づいた後《のち》、陳《ちん》はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。
「私《わたし》の家《うち》へかけてくれ給え。」
 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。
「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子《ふさこ》かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間《ま》に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」
 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸《マッチ》を摺《す》って、啣えていた葉巻を吸い始めた。
 ……煙草の煙、草花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上《のぼ》る調子|外《はず》れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒《ビール》を前にしながら、たった一人茫然と、卓《テーブル》に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
 女はまだ見た所、二十《
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