ないように。さようなら。」
 受話器を置いた陳彩《ちんさい》は、まるで放心したように、しばらくは黙然《もくねん》と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕《ボタン》を押した。
 書記の今西はその響《ひびき》に応じて、心もち明《あ》けた戸の後から、痩《や》せた半身をさし延ばした。
「今西君。鄭《てい》君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出《おい》でを願いますと。」
 陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
 その内に更紗《さらさ》の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな蠅《はえ》が一匹、どこからここへ紛《まぎ》れこんだか、鈍《にぶ》い羽音《はおと》を立てながら、ぼんやり頬杖《ほおづえ》をついた陳のまわりに、不規則な円を描《えが》き始めた。…………

 鎌倉《かまくら》。
 陳彩《ちんさい》の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏《おそなつ》の日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃《きょうちくとう》は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂《ただよ》わしていた。
 壁際《かべぎわ》の籐椅子《とういす》に倚《よ》った房子《ふさこ》は、膝の三毛猫《みけねこ》をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂《ものう》そうな視線を遊ばせていた。
「旦那様《だんなさま》は今晩も御帰りにならないのでございますか?」
 これはその側の卓子《テーブル》の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。
「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内《やまのうち》先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありと瞳《ひとみ》に漲《みなぎ》っていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
 房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あす
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