薄暗い壁側《かべぎわ》のベンチに坐っていた、背の高い背広の男が一人、太い籐《とう》の杖《つえ》を引きずりながら、のそのそ陳の側へ歩み寄った。そうして闊達《かったつ》に鳥打帽を脱ぐと、声だけは低く挨拶《あいさつ》をした。
「陳さんですか? 私は吉井《よしい》です。」
陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「今日《こんにち》は御苦労でした。」
「先ほど電話をかけましたが、――」
「その後《ご》何もなかったですか?」
陳の語気には、相手の言葉を弾《はじ》き除《の》けるような力があった。
「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か話して御出ででした。それから御湯や御食事をすませて、十時頃までは蓄音機《ちくおんき》を御聞きになっていたようです。」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も。」
「君が監視をやめたのは?」
「十一時二十分です。」
吉井の返答《ことば》もてきぱきしていた。
「その後《ご》終列車まで汽車はないですね。」
「ありません。上《のぼ》りも、下《くだ》りも。」
「いや、難有《ありがと》う。帰ったら里見《さとみ》君に、よろしく云ってくれ給え。」
陳は麦藁帽《むぎわらぼう》の庇《ひさし》へ手をやると、吉井が鳥打帽を脱ぐのには眼もかけず、砂利を敷いた構外へ大股《おおまた》に歩み出した。その容子《ようす》が余り無遠慮《ぶえんりょ》すぎたせいか、吉井は陳の後姿《うしろすがた》を見送ったなり、ちょいと両肩を聳《そび》やかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場《ていしゃば》前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。
鎌倉。
一時間の後《のち》陳彩《ちんさい》は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊《とうぞく》のように耳を当てながら、じっと容子を窺《うかが》っている彼自身を発見した。寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その中《うち》にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴《かぎあな》を洩れるそれであった。
陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動《こどう》を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責《かしゃく》であった。彼
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