つぞや御庭の松へ、鋏《はさみ》をかけて居りましたら、まっ昼間《ぴるま》空に大勢の子供の笑い声が致したとか、そう申して居りました。それでもあの通り気が違う所か、御用の暇には私へ小言《こごと》ばかり申して居るじゃございませんか。」
 老女は紅茶の盆《ぼん》を擡《もた》げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の頬《ほお》には、始めて微笑らしい影がさした。
「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。――あら、おしゃべりをしている内に、とうとう日が暮れてしまった。今夜は旦那《だんな》様が御帰りにならないから、好いようなものだけれど、――御湯は? 婆や。」
「もうよろしゅうございますとも。何ならちょいと私が御加減を見て参りましょうか。」
「好いわ。すぐにはいるから。」
 房子はようやく気軽そうに、壁側《かべぎわ》の籐椅子《とういす》から身を起した。
「また今夜も御隣の坊ちゃんたちは、花火を御揚げなさるかしら。」
 老女が房子の後《あと》から、静に出て行ってしまった跡《あと》には、もう夾竹桃も見えなくなった、薄暗い空虚の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体を摺《す》りつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐光《りんこう》を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。……………

 横浜。
 日華洋行《にっかようこう》の宿直室には、長椅子《ながいす》に寝ころんだ書記の今西《いまにし》が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を拡《ひろ》げていた。が、やがて手近の卓子《テーブル》の上へ、その雑誌をばたりと抛《なげ》ると、大事そうに上衣《うわぎ》の隠しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺めながら、蒼白い頬にいつまでも、幸福らしい微笑を浮べていた。
 写真は陳彩《ちんさい》の妻の房子《ふさこ》が、桃割《ももわ》れに結《ゆ》った半身であった。
 
 鎌倉。
 下《くだ》り終列車の笛が、星月夜の空に上《のぼ》った時、改札口を出た陳彩《ちんさい》は、たった一人跡に残って、二つ折の鞄《かばん》を抱えたまま、寂しい構内を眺めまわした。すると電燈の
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