なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていました。トックやマッグも恍惚《こうこつ》としていたことはあるいは僕よりもまさっていたでしょう。が、あの美しい(少なくとも河童《かっぱ》たちの話によれば)雌《めす》の河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに長い舌をべろべろ出していました。これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年|前《ぜん》にクラバックをつかまえそこなったものですから、いまだにこの音楽家を目の敵《かたき》にしているのだとかいうことです。
 クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾《ひ》きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」という声です。僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる身《み》の丈《たけ》抜群の巡査です、巡査は僕がふり向いた時、悠然《ゆうぜん》と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおお声に「演奏禁止」と怒鳴《どな》りました。それから、――
 それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバック、弾け! 弾け!」「莫迦《ばか》!」「畜生!」「ひっこめ!」「負け
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