ラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。僕はこの三度目の音楽会の時にはトックやトックの雌の河童のほかにも哲学者のマッグといっしょになり、一番前の席にすわっていました。するとセロの独奏が終わった後《のち》、妙に目の細い河童が一匹、無造作《むぞうさ》に譜本を抱《かか》えたまま、壇の上へ上がってきました。この河童はプログラムの教えるとおり、名高いクラバックという作曲家です。プログラムの教えるとおり、――いや、プログラムを見るまでもありません。クラバックはトックが属している超人|倶楽部《クラブ》の会員ですから、僕もまた顔だけは知っているのです。
「Lied――Craback」(この国のプログラムもたいていは独逸《ドイツ》語を並べていました。)
 クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾《ひ》きはじめました。クラバックはトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。僕はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の抒情《じょじょう》詩にも興味を持っていましたから、大きい弓
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