ました。ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。が、クラバックはラップや僕にはちょっと「驚くな」という手真似《てまね》をした上、今度は冷やかにこう言うのです。
「それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」
「君が? 謙遜家《けんそんか》を気どるのはやめたまえ。」
「だれが謙遜家《けんそんか》を気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は――クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。」
「では何を恐れているのだ?」
「何か正体《しょうたい》の知れないものを、――言わばロックを支配している星を。」
「どうも僕には腑《ふ》に落ちないがね。」
「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間《ま》にかロックの影響を受けてしまうのだ。」
「それは君の感受性の……。」
「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじてあいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十|哩《マイル》も違うのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
 クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。
「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。」
「まあ少し静かにしたまえ。」
「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかは僕を、――クラバックをあざけるためにロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことをなにもかも承知している。いつもあの色硝子《いろガラス》のランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」
「どうして?」
「この近ごろマッグの書いた『阿呆《あほう》の言葉』という本を見たまえ。――」
 クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、突《つっ》けんどんにこう言い放ちました。
「じゃきょうは失敬しよう。」
 僕はしょげ返ったラップといっしょにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は相変わらず毛生欅《ぶな》の並み木のかげにいろいろの店を並べています。僕らはなんということもなしに黙って歩いてゆきました。するとそこへ通りかかったのは髪の長い詩人のトックです。トックは僕らの顔を見ると、腹の袋から手巾《ハンケチ》を出し、何度も額をぬぐいました。
「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりにクラバックを尋ねようと思うのだが、……」
 僕はこの芸術家たちを喧嘩《けんか》させては悪いと思い、クラバックのいかにも不機嫌《ふきげん》だったことを婉曲《えんきょく》にトックに話しました。
「そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」
「どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?」
「いや、きょうはやめにしよう。おや!」
 トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。しかもいつか体中《からだじゅう》に冷汗を流しているのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「なにあの自動車の窓の中から緑いろの猿《さる》が一匹首を出したように見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。しかしトックはなんと言っても、承知する気色《けしき》さえ見せません。のみならず何か疑わしそうに僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」
 僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。僕らは――いや、「僕ら」ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまん中に脚《あし》をひろげ、しっきりない自動車や人通りを股目金《まためがね》にのぞいているのです。僕はこの河童《かっぱ》も発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。
「常談《じょうだん》じゃない。何をしている?」
 しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、あまり憂鬱《ゆううつ》ですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

        十一

 これは哲学者のマッグの書いた「阿呆《あほう》の言葉」の中の何章かです。――
        ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
  
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