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 我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬《しっと》したりしないためもないことはない。
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 もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽蔑《けいべつ》しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。
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 我々のもっとも誇りたいものは我々の持っていないものだけである。
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 何《なん》びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時にまた何びとも偶像になることに異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に安んじてすわっていられるものはもっとも神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバックはこの章の上へ爪《つめ》の痕《あと》をつけていました。)
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 我々の生活に必要な思想は三千年|前《ぜん》に尽きたかもしれない。我々はただ古い薪《たきぎ》に新しい炎を加えるだけであろう。
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 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。
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 幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠《けんたい》を伴うとすれば、――?
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 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。
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 矜誇《きょうか》[#ルビの「きょうか」は「きょうこ」の誤か]、愛欲、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまたおそらくはあらゆる徳も。
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 物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバックはこの章の上にも爪《つめ》の痕《あと》を残していました。)
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 我々は人間よりも不幸である。人間は河童《かっぱ》ほど進化していない。(僕はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました。)
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 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟《ひっきょう》我々の生活はこういう循環論法を脱することはできない。――すなわち不合理に終始している。
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 ボオドレエルは白痴になった後《のち》、彼の人生観をたった一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必ずしもこう言ったことではない。むしろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼したために胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはりクラバックの爪の痕は残っていました。)
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 もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。

        十二

 ある割合に寒い午後です。僕は「阿呆《あほう》の言葉」を読み飽きましたから、哲学者のマッグを尋ねに出かけました。するとある寂しい町の角《かど》に蚊のようにやせた河童《かっぱ》が一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。
「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一月《ひとつき》ばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣《けん》の代わりに水松《いちい》の棒を持っているのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。僕はあるいはその河童は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、いかにも傲然《ごうぜん》と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。しかし巡査は怒《おこ》りもせず、腹の袋から手帳を出してさっそく尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルック。」
「職業は?」
「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「なんのために?」
「子どもの玩具《おもちゃ》にしようと思ったのです。」
「その子どもは?」
 巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました。」
「死亡証明書を持っているかね?」
 やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。
「よろしい。どうも御苦労だったね。」
 僕は呆気《あっけ》にとられたまま、巡査の顔をながめていました。しかもそのうちにやせた河童は何かぶつぶつつ
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