とです。
 僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」としてチャックの隣に住むことになりました。僕の家《うち》は小さい割にいかにも瀟洒《しょうしゃ》とできあがっていました。もちろんこの国の文明は我々人間の国の文明――少なくとも日本の文明などとあまり大差はありません。往来に面した客間の隅《すみ》には小さいピアノが一台あり、それからまた壁には額縁《がくぶち》へ入れたエッティングなども懸《かか》っていました。ただ肝腎《かんじん》の家をはじめ、テエブルや椅子《いす》の寸法も河童の身長に合わせてありますから、子どもの部屋《へや》に入れられたようにそれだけは不便に思いました。
 僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼らばかりではありません。特別保護住民だった僕にだれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざチャックを呼び寄せるゲエルという硝子《ガラス》会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあのバッグという漁夫《りょうし》だったのです。
 ある生暖《なまあたた》かい日の暮れです。僕はこの部屋のテエブルを中に漁夫のバッグと向かい合っていました。するとバッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくしてじっと僕を見つめました。僕はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」と言いました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」ということです。が、バッグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうど蛙《かえる》の跳《は》ねるように飛びかかる気色《けしき》さえ示しました。僕はいよいよ無気味になり、そっと椅子《いす》から立ち上がると、一足《いっそく》飛びに戸口へ飛び出そうとしました。ちょうどそこへ顔を出したのは幸いにも医者のチャックです。
「こら、バッグ、何をしているのだ?」
 チャックは鼻目金《はなめがね》をかけたまま、こういうバッグ[#「バッグ」は底本では「バック」]をにらみつけました。するとバッグは恐れいったとみえ、何度も頭へ手をやりながら、こう言ってチャックにあやまるのです。
「どうもまこと
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