たし自身かう言つてゐれば、誰も醜聞にはしないものです。哲学者のマツグも言つてゐるでせう。『汝の悪は汝自ら言へ。悪はおのづから消滅すべし。』……しかもわたしは利益の外にも愛国心に燃え立つてゐたのですからね。」
 丁度そこへはひつて来たのはこの倶楽部の給仕です。給仕はゲエルにお時宜をした後、朗読でもするやうにかう言ひました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火――火事!」
 ゲエルは驚いて立ち上りました。僕も立ち上つたのは勿論です。が、給仕は落ち着き払つて次の言葉をつけ加へました。
「しかしもう消し止めました。」
 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑ひに近い表情をしました。僕はかう云ふ顔を見ると、いつかこの硝子会社の社長を憎んでゐたことに気づきました。が、ゲエルはもう今では大資本家でも何でもない唯の河童になつて立つてゐるのです。僕は花瓶の中の冬薔薇の花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたと云つても、奥さんはさぞお驚きでせう。さあ、これを持つてお帰りなさい。」
「難有う。」
 ゲエルは僕の手を握りました。それから急ににやりと笑ひ、小声にかう僕に話しかけました。
「隣は
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