てゐましたから、ラツプと一しよに長老に従ひ、香の匂のする廊下伝ひに或部屋へはひりました。その又小さい部屋の隅には黒いヴエヌスの像の下に山葡萄が一ふさ献じてあるのです。僕は何の装飾もない僧房を想像してゐただけにちよつと意外に感じました。すると長老は僕の容子にかう云ふ気もちを感じたと見え、僕等に椅子を薦める前に半ば気の毒さうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずに下さい。我々の神、――『生命の樹』の教へは『旺盛に生きよ』と云ふのですから。……ラツプさん、あなたはこのかたに我々の聖書を御覧に入れましたか?」
「いえ、……実はわたし自身も殆ど読んだことはないのです。」
ラツプは頭の皿を掻きながら、正直にかう返事をしました。が、長老は不相変静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹と云ふものの、成し能はないことはないのです。)のみならず雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈の余り、雄の河童を求めました。我々の神はこの歎きを憐み、雌の河童の脳髄を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ』と云ふ祝福を与へました。………」
僕は長老の言葉のうちに詩人のトツクを思ひ出しました。詩人のトツクは不幸にも僕のやうに無神論者です。僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかつたのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトツクは勿論「生命の樹」を知つてゐた筈です。僕はこの教へに従はなかつたトツクの最後を憐みましたから、長老の言葉を遮るやうにトツクのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
長老は僕の話を聞き、深い息を洩らしました。
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺伝をお数へなさるでせう。)トツクさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかつたのです。」
「トツク君はあなたを羨んでゐたでせう。いや、僕も羨んでゐます。ラツプ君などは年も若いし、……」
「僕も嘴さへちやんとしてゐれば或は楽天的だつたかも知れません。」
長老は僕等にかう言はれると、もう一度深い息を洩らしました。しかもその目は涙ぐんだまま、ぢつと黒いヴエヌスを見つめてゐるのです。
「わたしも実は、――これは
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