ゐました。――と云ふよりも信じる外はなかつたのでせう。この聖徒の我々に残した『伝説』と云ふ本を読んで御覧なさい。この聖徒も自殺未遂者だつたことは聖徒自身告白してゐます。」
僕はちよつと憂鬱になり、次の龕へ目をやりました。次の龕にある半身像は口髭の太い独逸人です。
「これはツアラトストラの詩人ニイチエです。その聖徒は聖徒自身の造つた超人に救ひを求めました。が、やはり救はれずに気違ひになつてしまつたのです。若し気違ひにならなかつたとすれば、或は聖徒の数へはひることも出来なかつたかも知れません。……」
長老はちよつと黙つた後、第三の龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰よりも苦行をしました。それは元来貴族だつた為に好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを嫌つたからです。この聖徒は事実上信ぜられない基督を信じようと努力しました。いや、信じてゐるやうにさへ公言したこともあつたのです。しかしとうとう晩年には悲壮な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]つきだつたことに堪へられないやうになりました。この聖徒も時々書斎の梁に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にははひつてゐる位ですから、勿論自殺したのではありません。」
第四の龕の中の半身像は我々日本人の一人です。僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに懐しさを感じました。
「これは国木田独歩です。轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人です。しかしそれ以上の説明はあなたには不必要に違ひありません。では五番目の龕の中を御覧下さい。――」
「これはワグネルではありませんか?」
「さうです。国王の友だちだつた革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷さへしてゐました。しかし勿論基督教よりも生活教の信徒の一人だつたのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦は何度この聖徒を死の前に駆りやつたかわかりません。」
僕等はもうその時には第六の龕の前に立つてゐました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子供の大勢ある細君の代りに十三四のタイテイの女を娶つた商売人上りの仏蘭西の画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流してゐました。が、唇を御覧なさい。砒素か何かの痕が残つてゐます。第七の龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでせう。ではどうかこちらへお出で下さい。」
僕は実際疲れ
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