に驚いたと言うことです。のみならず半之丞は上さんの言葉にうんだともつぶれたとも返事をしない、ただ薄暗い湯気《ゆげ》の中にまっ赤になった顔だけ露《あら》わしている、それも瞬《またた》き一つせずにじっと屋根裏の電燈を眺めていたと言うのですから、無気味《ぶきみ》だったのに違いありません。上さんはそのために長湯《ながゆ》も出来ず、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》風呂を出てしまったそうです。
共同風呂のまん中には「独鈷《とっこ》の湯」の名前を生じた、大きい石の独鈷があります。半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖《そで》だたみにし、遺書は側《そば》の下駄《げた》の鼻緒《はなお》に括《くく》りつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことでしょう。わたしの宿の主人の話によれば、半之丞がこう言う死にかたをしたのは苟《いやし》くも「た」の字病院へ売り渡した以上、解剖《かいぼう》用の体に傷をつけてはすまないと思ったからに違いないそうです。もっともこれがあの町の定説と言う訣《わけ》ではありません。口の悪い「ふ」の字軒の主人などは、「何、すむやすまねえじゃねえ。あれは体に傷をつけては二百|両《りょう》にならねえと思ったんです。」と大いに異説を唱《とな》えていました。
半之丞の話はそれだけです。しかしわたしは昨日《きのう》の午後、わたしの宿の主人や「な」の字さんと狭苦しい町を散歩する次手《ついで》に半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」の字さんです。「な」の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡《ろうがんきょう》をかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋《たず》ねていました。
「じゃそのお松《まつ》と言う女はどうしたんです?」
「お松ですか? お松は半之丞の子を生んでから、……」
「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の子だったんですか?」
「やっぱり半之丞の子だったですな。瓜《うり》二つと言っても好《よ》かったですから。」
「そうしてそのお松と言う女は?」
「お松は「い」の字と言う酒屋に嫁《よめ》に行ったです。」
熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい
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