百円おもらい下され度《たく》、その金で「あ」の字の旦那《だんな》〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう[#「まどう」に傍点]〔償《つぐの》う?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目《めんぼく》ありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世《じせい》でしょう。〕おまつどの。」
半之丞の自殺を意外《いがい》に思ったのは「な」の字さんばかりではありません。この町の人々もそんなことは夢にも考えなかったと言うことです。若し少しでもその前に前兆《ぜんちょう》らしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。何《なん》でも彼岸前のある暮れがた、「ふ」の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台《えんだい》に話していました。そこへふと通りかかったのは「青ペン」の女の一人です。その女は二人の顔を見るなり、今しがた「ふ」の字軒の屋根の上を火の玉が飛んで行ったと言いました。すると半之丞は大真面目《おおまじめ》に「あれは今おらが口から出て行っただ」と言ったそうです。自殺と言うことはこの時にもう半之丞の肚《はら》にあったのかも知れません。しかし勿論《もちろん》「青ペン」の女は笑って通り過ぎたと言うことです。「ふ」の字軒の主人も、――いや、「ふ」の字軒の主人は笑ううちにも「縁起《えんぎ》でもねえ」と思ったと言っていました。
それから幾日もたたないうちに半之丞は急に自殺したのです。そのまた自殺も首を縊《くく》ったとか、喉《のど》を突いたとか言うのではありません。「か」の字川の瀬の中に板囲《いたがこ》いをした、「独鈷《とっこ》の湯」と言う共同風呂がある、その温泉の石槽《いしぶね》の中にまる一晩沈んでいた揚句《あげく》、心臓痲痺《しんぞうまひ》を起して死んだのです。やはり「ふ」の字軒の主人の話によれば、隣《となり》の煙草屋の上《かみ》さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。この煙草屋の上さんは血の道か何かだったものですから、宵のうちにもそこへ来ていたのです。半之丞はその時も温泉の中に大きな体を沈めていました。が、今もまだはいっている、これにはふだんまっ昼間《ぴるま》でも湯巻《ゆまき》一つになったまま、川の中の石伝《いしづた》いに風呂へ這《は》って来る女丈夫《じょじょうぶ》もさすが
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング