往生絵巻
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)童《わらべ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|健気《けなげ》な

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童《わらべ》 やあ、あそこへ妙な法師《ほふし》が来た。みんな見ろ。みんな見ろ。
鮓売《すしうり》の女 ほんたうに妙な法師ぢやないか? あんなに金鼓《ごんぐ》をたたきながら、何だか大声に喚《わめ》いてゐる。……
薪売《まきうり》の翁《おきな》 わしは耳が遠いせゐか、何を喚くのやら、さつぱりわからぬ。もしもし、あれは何と云うて居りますな?
箔打《はくうち》の男 あれは「阿弥陀仏《あみだぶつ》よや。おおい。おおい」と云つてゐるのさ。
薪売の翁 ははあ、――では気違ひだな。
箔打の男 まあ、そんな事だらうよ。
菜売《なうり》の媼《おうな》 いやいや、難有《ありがた》い御上人《おしやうにん》かも知れぬ。私《わたし》は今の間《ま》に拝んで置かう。
鮓売の女 それでも憎々《にくにく》しい顔ぢやないか? あんな顔をした御上人が何処《どこ》の国にゐるものかね。
菜売の媼 勿体《もつたい》ない事を御云ひでない。罰《ばち》でも当つたら、どうおしだえ?
童 気違ひやい。気違ひやい。
五位《ごゐ》の入道《にふだう》 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
犬 わんわん。わんわん。
物詣《ものまうで》の女房 御覧なさいまし。可笑《をか》しい法師が参りました。
その伴《つれ》 ああ云ふ莫迦者《ばかもの》は女と見ると、悪戯《いたづら》をせぬとも限りません。幸ひ近くならぬ内に、こちらの路へ切れてしまひませう。
鋳物師《いものし》 おや、あれは多度《たど》の五位殿ぢやないか?
水銀《みずかね》を商ふ旅人 五位殿だか何だか知らないが、あの人が急に弓矢を捨てて、出家してしまつたものだから、多度《たど》では大変な騒ぎだつたよ。
青侍《あをざむらひ》 成程五位殿に違ひない。北の方や御子様たちは、さぞかし御歎きなすつたらう。
水銀を商ふ旅人 何でも奥方や御子供衆は、泣いてばかり御出でだとか云ふ事でした。
鋳物師 しかし妻子《つまこ》を捨ててまでも、仏門に入らうとなすつたのは、近頃|健気《けなげ》な御志だ。
干魚《ひうを》を売る女 何の健気な事がありますものか? 捨てられた妻子の身になれば、弥陀仏でも女でも、男を取つたものには怨みがありますわね。
青侍 いや、大きにこれも一理窟だ。ははははは。
犬 わんわん。わんわん。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
馬上の武者 ええ、馬が驚くわ。どうどう。
櫃《ひつ》をおへる従者《ずさ》 気違ひには手がつけられませぬ。
老いたる尼 あの法師は御存知の通り、殺生好《せつしやうず》きな悪人でしたが、よく発心《ほつしん》したものですね。
若き尼 ほんたうに恐しい人でございました。山狩や川狩をするばかりか、乞食なぞも遠矢《とほや》にかけましたつけ。
手に足駄《あしだ》を穿《は》ける乞食 好《い》い時に遇《あ》つたものだ。もう二三日早かつたら、胴中《どうなか》に矢の穴が明いたかも知れぬ。
栗|胡桃《くるみ》などを商ふ主《あるじ》 どうして又ああ云ふ殺伐《さつばつ》な人が、頭を剃《そ》る気になつたのでせう?
老いたる尼 さあ、それは不思議ですが、やはり御仏《みほとけ》の御計《おんはか》らひでせう。
油を商ふ主 私《わたし》はきつと天狗か何かが、憑《つ》いてゐると思ふのだがね。
栗胡桃などを商ふ主 いや、私は狐だと思つてるのさ。
油を商ふ主 それでも天狗はどうかすると、仏に化けると云ふぢやないか?
栗胡桃などを商ふ主 何、仏に化けるものは、天狗ばかりに限つた事ぢやない。狐もやつぱり化けるさうだ。
手に足駄を穿ける乞食 どれ、この暇に頸《くび》の袋へ、栗でも一ぱい盗んで行かうか。
若き尼 あれあれ、あの金鼓《ごんぐ》の音《ね》に驚いたのか、鶏《とり》が皆屋根へ上《あが》りました。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
釣をする下衆《げす》 これは騒々しい法師が来たものだ。
その伴《つれ》 どうだ、あれは? 跛《ゐざり》の乞食が駈けて行くぜ。
牟子《むし》をしたる旅の女 私はちと足が痛うなつた。あの乞食の足でも借りたいものぢや。
皮子《かはご》を負へる下人 もうこの橋を越えさへすれば、すぐに町でございます。
釣をする下衆 牟子の中が一目見てやりたい。
その伴 おや、側見《わきみ》をしてゐる内に、何時《いつ》か餌をとられてしまつた。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
鴉《からす》 かあかあ。
田を植うる女 
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