「時鳥《ほととぎす》よ。おれよ。かやつよ。おれ泣きてぞわれは田に立つ。」
その伴 御覧よ。可笑《をか》しい法師ぢやないか。
鴉 かあかあ。かあかあ。
五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
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暫時|人声《ひとごゑ》なし。松風の音 こうこう。
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五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
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再び松風の音 こうこう。
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五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
老いたる法師 御坊《ごばう》。御坊。
五位の入道 身共《みども》を御呼びとめなすつたかな?
老いたる法師 如何《いか》にも。御坊は何処へ御行きなさる?
五位の入道 西へ参る。
老いたる法師 西は海ぢや。
五位の入道 海でもとんと大事ござらぬ。身共は阿弥陀仏を見奉るまでは、何処《どこ》までも西へ参る所存《しよぞん》ぢや。
老いたる法師 これは面妖《めんえう》な事を承るものぢや。では御坊は阿弥陀仏が、今にもありありと目《ま》のあたりに、拝ませられると御思ひかな?
五位の入道 思はねば何も大声に、御仏《みほとけ》の名なぞを呼びは致さぬ。身共の出家もその為でござるよ。
老いたる法師 それには何か仔細《しさい》でもござるかな?
五位の入道 いや、別段仔細なぞはござらぬ。唯|一昨日《をととひ》狩の帰りに、或講師の説法を聴聞《ちやうもん》したと御思ひなされい。その講師の申されるのを聞けば、どのやうな破戒の罪人でも、阿弥陀仏に知遇《ちぐう》し奉れば、浄土に往かれると申す事ぢや。身共はその時体中の血が、一度に燃え立つたかと思ふ程、急に阿弥陀仏が恋しうなつた。……………
老いたる法師 それから御坊はどうなされたな?
五位の入道 身共は講師をとつて伏せた。
老いたる法師 何、とつて伏せられた?
五位の入道 それから刀を引き抜くと、講師の胸さきへつきつけながら、阿弥陀仏の在処《ありか》を責め問うたよ。
老いたる法師 これは又滅相な尋ね方ぢや。さぞ講師は驚いたでござらう。
五位の入道 苦しさうに眼《まなこ》を吊《つ》り上げた儘、西、西と申された。――や、とかうするうちに、もう日暮ぢや。途中に暇を費してゐては、阿弥陀仏の御前《おんまへ》も畏《おそ》れ多い。では御免《ごめん》を蒙《かうむ》らうか。――阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
老いたる法師 いや、飛んだ物狂ひに出合うた。どれわしも帰るとしよう。
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三度《みたび》松風の音 こうこう。更に又浪の音 どぶりどぶり。
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五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
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浪の音 時に千鳥の声 ちりりりちりちり。
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五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。――この海辺《うみべ》には舟も見えぬ。見えるのは唯浪ばかりぢや。阿弥陀仏の生まれる国は、あの浪の向ふにあるかも知れぬ。もし身共《みども》が鵜《う》の鳥ならば、すぐに其処へ渡るのぢやが、……しかしあの講師も阿弥陀仏には、広大無辺《くわうだいむへん》の慈悲があると云うた。して見れば身共が大声に、御仏の名前を呼び続けたら、答位はなされぬ事もあるまい。されずば呼び死《じに》に、死ぬるまでぢや。幸ひ此処に松の枯木が、二股に枝を伸ばしてゐる。まづこの梢に登るとしようか。――阿弥陀仏よや。おおい。おおい。
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再び浪の音 どぶりどぶん。
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老いたる法師 あの物狂ひに出合つてから、もう今日は七日目《なぬかめ》ぢや。何でも生身《しやうじん》の阿弥陀仏に、御眼にかかるなぞと云うてゐたが。その後は何処《いづく》へ行き居つたか、――おお、この枯木の梢の上に、たつた一人登つてゐるのは、紛《まぎ》れもない法師ぢや。御坊《ごばう》。御坊。……返事をせぬのも不思議はない。何時《いつ》か息が絶えてゐるわ。餌袋《ゑぶくろ》も持たぬ所を見れば、可哀さうに餓死《うゑし》んだと見える。
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三度波の音 どぶんどぶん。
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老いたる法師 この儘《まま》梢に捨てて置いては、鴉の餌食にならうも知れぬ。何事も前世の因縁ぢや。どれわしが葬うてやらう。――や、これはどう
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