きながら、しかもその為に、一層、いらいらした腹立たしさを感じながら、黙つて、その「静に」もたげた顔を見下しました。
私は、あんな顔を、二度と見た事はありません。悪魔でも、一目見たら、泣くかと思ふやうな顔なのです。かう云つても、実際、それを見ないあなたには、とても、想像がつきますまい。私は、あなたに、あの涙ぐんでゐる眼を、お話しする事は、出来るつもりです。あの急に不随意筋に変つたやうな口角の筋肉の痙攣も、或は、察して頂く事が出来るかも知れません。それから、あの汗ばんだ、色の悪い顔も、それだけなら、容易に、説明が出来ませう。が、それらのすべてから来る、恐しい表情は、どんな小説家も、書く事は出来ません。私は、小説をお書きになるあなたの前でも、安心して、これだけの事は、云ひきれます。私はその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のやうに、たゝき壊したのを感じました。それ程、この信号兵の顔が、私に、強いシヨツクを与へたのです。
「貴様は何をしようとしてゐるのだ。」
私は、機械的にかう云ひました。すると、その「貴様」が、気のせいか、私自身を指してゐる様に、聞えるのです。「貴様は何をしようとしてゐるのだ。」――かう訊《たづ》ねられたら、私は何と答へる事が出来るのでせう。「己は、この男を罪人にしようとしてゐるのだ。」誰が安んじて、さう答へられます。誰が、この顔を見てそんな真似が出来ます。かう書くと、長い間の事のやうですが、実際は、殆、一刹那《いつせつな》の中に、こんな自責が、私の心に閃《ひらめ》きました。丁度、その時です。「面目《めんぼく》ございません」――かう云ふ語《ことば》が、かすかながら鋭く、私の耳にはいつたのは。
あなたなら、私自身の心が、私に云つたやうに聞えたとでも、形容なさるのでせう。私は、唯、その語が、針を打つたやうに、私の神経へひゞくのを感じました。まつたく、その時の私の心もちは、奈良島と一しよに「面目ございません」と云ひながら、私たちより大きい、何物かの前に首がさげたかつたのです。私は、いつか、奈良島の肩をおさへてゐた手をはなして、私自身が捕へられた犯人のやうに、ぼんやり石炭庫の前に立つてゐました。
後は、お話しせずとも、大概お察しがつきませう。奈良島は、その日一日、禁錮室《きんこしつ》に監禁されて、翌日、浦賀の海軍監獄へ送られました。これは、あんまりお話した
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