が切れない中に、砲術長自身、罰則を破つて、猿に、人参や芋を、やつてしまひました。さうして、「しよげてゐるのを見ると、猿にしても、可哀さうだからな」と、かう云ふのです。――これは、余事ですが、実際奈良島をさがして歩く私たちの心もちは、この猿を追ひかけた時の心もちと、可成《かなり》よく似てゐました。
 私は、その時、一番先に、下甲板へ下りました。御承知でせうが、下甲板は、何時もいやにうす暗いものです。その中で、磨いた金具や、ペンキを塗つた鉄板が、あちらこちらに、ぼんやりと、光つてゐる。――何だか妙に息がつまるやうな気がして、仕方がありません。そのうす暗い中を、石炭庫の方へ二足三足、歩いたと思ふと、私は、もう少しで、声を出して、叫びさうになりました。――石炭庫の積入口に、人間の上半身が出てゐたからです。今、その狭い口から、石炭庫の中へ、はいらうと云ふので、足を先へ、入れて見た所なのでせう。こつちからは、紺の水兵服の肩と、帽子とに遮られて、顔は誰ともわかりません、それに、光が足りないので、唯その上半身の黒くうき出してゐるのが、見えるだけです。が、直覚的に、私は、それを、奈良島だと思ひました。さうだとすれば、勿論、自殺をするつもりで、石炭庫へはいらうと云ふのです。
 私は、異常な興奮を感じました。体中の血が躍《をど》るやうな、何とも云ひやうのない、愉快な昂奮です。銃を手にして、待つてゐた猟師が、獲物の来るのを見た時のやうな心もちとでも、云ひませうか。私は、殆、夢中で、その男にとびかかりました。さうして、猟犬よりもすばやく、両手で、その男の肩をしつかり、上からおさへました。
「奈良島。」
 叱るとも、罵るともつかずに、かう云つた私の声は、妙に上ずつて、顫へてゐました。それが、実際、犯人の奈良島だつた事は云ふまでもありません。
「………」
 奈良島は私の手をふり離すでもなく、上半身を積入口から出したまま、静に、私の顔を見上げました。「静に」と云つたのでは、云ひ足りません。ある丈の力を出しきつて、しかも静でなければならない「静に」です。余裕のない、せつぱつまつた、云はば半《なかば》吹《ふ》き折られた帆桁《ほげた》が、風のすぎた後で、僅に残つてゐる力をたよりに、元の位置に返らうとする、あの止むを得ない「静に」です。私は、無意識ながら予期してゐた抵抗がなかつたので、或不満に似た感情を抱
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