深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代《かはり》に、煙草は、洽《あまね》く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜《きうばつ》が、一面堕落を伴つてゐるやうに、悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。
 それから序《ついで》に、悪魔のなり行きを、簡単に、書いて置かう。彼は、フランシス上人が、帰つて来ると共に、神聖なペンタグラマの威力によつて、とうとう、その土地から、逐払《おひはら》はれた。が、その後も、やはり伊留満のなりをして、方々をさまよつて、歩いたものらしい。或記録によると、彼は、南蛮寺の建立《こんりふ》前後、京都にも、屡々《しばしば》出没したさうである。松永|弾正《だんじやう》を飜弄《ほんろう》した例の果心居士《くわしんこじ》と云ふ男は、この悪魔だと云ふ説もあるが、これはラフカデイオ・ヘルン先生が書いてゐるから、ここには、御免を蒙《かうむ》る事にしよう。それから
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