しても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈《じょうやとう》のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃|拝《おが》みなれた、端厳微妙《たんごんみみょう》の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御告《おつげ》だと、一図《いちず》に思いこんでしまいましたげな。」
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定《じょう》後《うしろ》から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎《あいにく》の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶《なお》の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭《くちひげ》にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願《まんがん》の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊《き》かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きす
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